Spiritual

スピリット

ここでは個人の信念、価値観、生きがい、宗教的・精神的な経験などに注目します。スピリチャルな要素は、行動へのモチベーションや意味付けに大きく関わります。更に困難な状況においてはレジリエンス(回復力)や希望を提供します。人間の行動や選択は内なる信念や価値観によって動機付けられることが多いので、この部分を大切に扱うことは総合的な明るい気持ちで暮らすためにとても重要です。

「人間の心にはどんなものも埋めることのできない大きな空洞がある。それを埋めることができるのは神だけだ」これは有名な数学者・パスカルの言葉です。

この「神」だけが埋めることができる空洞の解釈はいろいろですが、私はその「空洞」が人間の「スピリット」だと思います。度重なる死に直面した体験から、私なりにたどり着いた結果です。

この「スピリット」の純度を高める作業を助けてくれたのがDr. John Ridgway。珍しい才能をもち、ウォールストリート・ジャーナル掲載の「マーキスWho’s Whoの生涯における功労賞」(150万人の著名人から選出されます)を受けた方。でも謙遜を体現したような方で今も多くの人に慕われている「友達」です。(2022年2月22日天に召されました)

私はとても不思議な巡り合わせで彼に関わることができました。行き詰った人生の方向を変えてくれた私のメンターのことをあなたにもぜひご紹介したいと思い、師の著作を私の思い出を織り込んだ自由翻訳にして記載することにしました。

「日本食は太らないから好き」と日本食を愛した食いしん坊。
コーヒーを飲みながら雑談が大好きだった、と彼の友人の多くが言います。
軍でインテリジェンス(情報将校)やタイ王国王子様の家庭教師をして、半導体研究でNASAに行き、インド工科大学大学院の教授、教授役で映画にも出た。一方で陣痛促進剤の代わりに奥さんをバイクに乗せてボコボコの道を走り回った、等など楽しい話もいろいろ聞きました。

人生をマックスで楽しむことを教え、神の「空洞」を埋める方法を教えてくれた人。
今も「人生を楽しみなさい!」と言われている気がします。こんな楽しい人生もあるのだ、と思った方、Johnの方法、偉大なる存在/神様と人を愛して暮らす、1度きりの限りある人生の時間を一緒に楽しみませんか?

スピリット2

固体物理学者で半導体の専門家として多方面で活躍していたジョンさんは、冷静沈着な物理学的思考とイエスキリストの「良い知らせ:福音」を世界中の人に伝えるパッションが魅力的な方。学問、信仰、ビジネス界の要素を調和させる独自の視点に、世界中の友達が惹きつけられたと思います。
ジョンさんと私の家族の出会いは私達がシドニー駐在中2009年。私の家族も何かと悩みが多く随分と相談に乗って頂きました。相談への応答は、鋭さと優しさが同居していました。その悩みの中には、私の信念に関わる部分も大きく、彼のアドバイスによって、私はその信念を捨てずに済みました。ですからその意味でジョンさんは私の「信念の恩人、メンター」でした。

そんなジョンさんのビジョンは次世代育成。
相談業をする私と「個人や家庭が幸福で豊かな人間関係を築くサポート」をしよう、という考えに至り協力関係で「J&T Premier Academy」を作る予定でした。ところが、ジョンさんは事故で急逝。夫の死後、私の希望だったAcademy共同創設も断念。深い悲嘆と苦悩の日々…今後を祈る中、J&TをJoy&Transformationに変換しなさい、と神様から閃きをもらった気がしました。

「奴隷のようにならず、自由に生きて良いのだ」という彼のアプローチと信徒へのメッセージは、多くの人に影響を与えました。私も彼のスピリットを引き継ごうと決めました。聖書のガラテヤ書の一節からインスパイアを受け「キリストへの信仰がもたらす自由を受け入れるスピリット」を強調し、自由を伝えてくれた、その神髄を伝えよう、と。

彼の伝えたメッセージや価値観は、既成概念を疑うこと、信仰や教育面でも自由闊達な生き方の推奨。多くの人に影響を与えた彼のメッセージと遺志はJoy&Transformation Premier Academyを通じて次世代に継承されていきます。ジョンさんの功績と影響力、彼が生きた多彩なキャリアと世界宣教の熱意を映し出しながら。

スピリット2

ジョン・リッジウェイ博士 著書(Amazon) ▶︎▶︎

    Your Kingdom come(New Edition with Discussion Questions)
    John Ridgway
    Equipping laborers to bless the unreached people groups of the world today
    御国が来ますように:神の祝福を届けるために日々働いている人達へ贈ります!

これは10年以上に及び家族で親しくさせていただいた、信仰と人生のメンターであったジョン・リッジウェイ博士(Dr. John Ridgway)の教えを、その著書である”Your Kingdom Come”を読みながら対話をするように翻訳したものです(2018年版)。そして私の個人的記憶なども記載しています。

ジョン・リッジウェイ博士(Dr. John Ridgway)は2022年2月22日、天に召されました。これは思い出を織り交ぜながら博士の著書を意訳したものです。これによりジョン・リッジウェイ博士の暖かい人柄、神様への真心からの献身の姿をご理解いただく一助になれば幸いです。

これは10年以上に及び家族で親しくさせていただいた、信仰と人生のメンターであったジョン・リッジウェイ博士(Dr. John Ridgway)の教えを、その著書である”Your Kingdom Come”を読みながら対話をするように翻訳したものです(2018年版)。そして私の個人的記憶なども記載しています。

ジョン・リッジウェイ博士(Dr. John Ridgway)は2022年2月22日、天に召されました。これは思い出を織り交ぜながら博士の著書を意訳したものです。これによりジョン・リッジウェイ博士の暖かい人柄、神様への真心からの献身の姿をご理解いただく一助になれば幸いです。

本書は以下のような流れになっていますが、よりリッジウェイ博士の理解の助けになるように順序を変えてありますこと、著者紹介も原文通りでありますことを含みおきください。

ジョン・リッジウェイ博士はオーストラリアNSW大学より固体物理学で博士課程修了。インド、シンガポール、マレーシア、アメリカ合衆国で32年間にわたり産業コンサルタントとして活躍されました。又、宣教活動における使徒的「パイオニア」の働きに従事する人たちへコーチングを現在(2022)まで行っています。奥様のRuth、インド生まれの2人の子供たちと18年インドで暮らし、その間Bangaloreにある最高峰教育機関Indian Institute of Scienceの物理学部大学院で教鞭を取りました。オーストラリアと北米の多国籍企業との仕事の一方で、シンガポールで2年、マレーシアで7年産業コンサルタントとして貢献。タイ王国とオーストラリア政府からの依頼を受け、王家の子弟教育に教育係としても貢献しました。日本にも造詣が深く研究と日本の友人との親交を深めるため10年間以上日本各地を訪れています。

本書の実現に多くの貢献をして下さった、ジョナサン・ルイス博士 (Dr. Jonathan Lewis), ティム・ルイスとレベッカ・ルイス夫妻 (Tim Lewis and his wife Rebecca)、ジム・ピーターセン(Jim Petersen)、ヴィジャヤン博士 (Dr. Vijayan)、スティーブ・スレイター (Steve Slater)、デイビッド・ボク (David Bok)、ジョージ・マクブライド (George McBride)、ビル・スワン (Bill Swan)、K.J.ジョゼフ (K.J. Joseph)、C.トンプソン (C. Thompson)、ジョン・トラビス (John Travis)、ミルトン・コーク博士 (Dr. Milton Coke)、アブ・マンナル (Abu Mannar)、コーシー博士 (Dr. Koshy)、これらの方々に心から感謝いたします。

ここにお名前がある方達は、ジョン・リッジウェイ博士と深い親交のあった方々で、聖書を共に読む中で、何度も彼らのお話を伺いました。ご存命中も素晴らしい友人に恵まれて、良い人生を送っておられたと思います。

さて、ここからは「ジョン・リッジウェイ博士」ではなく、私のメンターであり、友人でありました方を「ジョンさん」と記載させていただきます。

生前、共に仕事をする計画を立てていましたので、お話をさせていただく機会はとても多かったことを今でも私の宝の時間として感謝しています。今の時代の話をする時に、ジョンさんはよく「この時代は何が起こるか分からなくて、神様がいろいろなことから奇跡を行う姿を見られますよ」と嬉しそうに話していました。わくわくした様子で話して下さったことをよく覚えています。

「君、私たちは今人類の歴史の中でも、本当にワクワクするような時代にいるのですよ!神様が特別なことを行っておられるこの時期に私たちが生きているというのは、本当に素晴らしい!どう考えても分からない、夢のような奇跡を神様が今、行っておられるのを見られるのですからね」

私にはとてもワクワクするとは思えないようなことでも、彼の眼には今見えていることを超えた、何かが見えているようでした。それは神様への厚い信頼がそれを見せたのだろうと思います。

それは、イザヤ書43:18-19に書かれていることが成就したのではないか、と思えるようなこと。み言葉にこう書かれている通りです。

先のことに心を留めるな。
昔のことに目を留めるな。
見よ、わたしは新しいことを行う。
今、それが芽生えている。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
(new pathways in the scriptures)
そして、砂漠に川も。
(聖霊【ヨハネ7:37-39活ける命の水】が、まったく新しいものの見かたをはっきりと示す。それはキリストの愛をまだ知らず、魂にうえ渇きのある世界中のあらゆる場所に向けたものである)

では、この*新しいこと*とは何だと思いますか?
この300年間、アフリカやアジア、他にも世界の南側で数えきれないほどの、何百万人もの人たちが「イエス・キリストに従って生きていこうと決心」しています。この数字の驚くべき事実は、閉鎖的な部族や(私たちが伝統的な宗教の中で少数派と呼んでいる)何でも神にしてしまう信仰を持つ人々の中にそのことが起こっているということです。

ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒といった世界的に主な伝統的宗教を持つ人々、イエス・キリストと人生を送りたいなどと、先ず思わないだろう人たちが、「自分の救い主、よみがえった王」としてイエスについて行きたいと思っているのです。

様々な国、多様な文化、宗教の中の家族関係、人間関係があるところに、この動きが起こっています。

では、この動きの大きなテーマはいったい何でしょうか?それは「神の国の良い知らせ」です。そしてそれが、イエスの教えたこと、行われたことそのものです。「イエスについて行きたい」と人びとが思うようになっているというこの動きは、自分たちの家族や、コミュニティ内のいろいろな人間関係から始まっています。その「人間関係そのもの」が時間はかかりますが、イエスと人生を暮らしたいと思う人びとが多くなっていく動きのキーワードになります。

マタイ6:33を見れば、イエスが私たちに命じたことがわかります。それは、「神の国とその義をまず第一に求めなさい」ということです。マタイ6:10でイエスは弟子達に父なる神に祈る時はこのように祈りなさい、と言いました。

御国が来ますように、御心が天になるごとく地にもなされますように!」と。

今迄の歴史を見る時、忠実な働き人たちの多くが「御国が来る」ことを見届けたいと待ち望んできました。そして今日、御国の良き知らせが世界中の国に来ている、神様ご自身が御国の良き知らせを全ての国に行き巡らせたいと願っておられる、と私たちは感じることができます。

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証され、それから終わりが来ます」とイエスはマタイ24:14にあります。

神様はあなたの人生であなたがどんな役割を果たすことを願っておられると思いますか?まだ全く神様を知らない人達がいる世界に、神様はご自分の御国を知らせるために、あなたに何をしてほしいと思っておられるでしょうか?

世界の三分の一の人が自分自身をキリスト教徒だと言っています。しかし、多くは「もう一度生まれ変わること」が必要です。あとの三分の一の人達もキリスト教徒として暮らしていますが、まだキリストとパーソナルな関係を持っていません。残りの三分の一の人達は「良き知らせ」を知る由もない場所で暮らしています。 90%以上の人たちは、まだ神様のことを何も聞いていません(521の人種グループになるとも言われています)。

本書を書くにあたって私たちが願っていることは、あなたが神様を伝える「新しいやり方」を始めるお手伝いをすることです。それは今あなたが暮らしている場所に居ながらできることです。まだ神様のことを知らない人達に神様を知ってもらいたい!その願いに答えることが本書の目的です。

あなたが現在暮らしている場所には、まだ神様のことを聞いていない人達の「代表」のような人が居ませんか?それはイスラム教徒のご近所さん、ヒンズー教徒の医師、仏教徒の同僚、大学のクラスにいる神道を信じる友人かもしれません。そういった人たちや彼らの家族に、「良い知らせ」をどのように伝えたら良いか、良い方法はあるのでしょうか?

本書では、戦略的な7つの方法をお伝えします。その方法で、生き生きと神様のことを表現できます。そして神様を知らない人たち、その家族にあなたがごく自然なかたちで接しつつも、どうやって神様をお伝えできるのか、どうやったらあなたが彼らにとって関わりたい存在となれるか、その在り方をお伝えしたいと思います。

私は世界の中の、主流になっている宗教を信じている人たちになんとかして「良い知らせ」が届くように援助をしたいと思っています。アジアは、ほぼ90%の人に「良い知らせ」が届いていません。そして、その半数はインドの亜大陸で暮らす人たちです。

キリストを伝える人が全く存在しない場所に行きなさい、との言葉をあなたが神様から受けた時、本書はきっとあなたの役に立つと思います。又、一般の人でも、心から神様に従いたいと願う者として、どのように「良い知らせ」を伝える行動を始めていったら良いか、本書はあなたにその方法を伝えます。

7つの戦略的鍵とはなんでしょう?
世界中の国々にインパクトを与える「神の国の良い知らせ」。それを伝える生き生きした行動をするにはどうしたら良い?それを考える時にこの7つの鍵はあなたの助けになると思います。こう考えることで、まだ神様を知らない人たちがいる場所であなたが見たい結果を見ることができます。

  1. 福音を再発見すること
  2. 神の国を回復すること
  3. 第一の誕生と第二の誕生を再確認すること
  4. 教会を定義する関係性を認識すること
  5. 聖霊を喜ぶこと
  6. 福音は自由を与えると知ること
  7. 賜物を自由に使うこと

メンターのジョンさんとの思い出をいくつかシェアしたいと思います。

ジョンさんが祈る時は、必ず「お父さん」と言ってからお祈りを始めていました。その祈る姿を見た私は「父なる神様」がジョンさんの横にいるようだ、と思ったものです。私達の目で見ることはできませんが、そこに座っているお父さんに話しかけているような、「仲の良い親子」の会話を聞いているような風景でした。

それに、目を閉じて祈らないのがジョンさんでした。霊の目で父なる神様が見えていたのだと思います。私は次元が違う、と思った記憶がありますが、それはそこに一緒に座っている神様に「お父さん、あのね、こんなことがあって・・・」という子供が嬉しそうに話す感じ。ジョンさんを見ているだけで、ここには呼吸している生きた神様が一緒に居る!と感じることができたのです。そんなふうに思わせてくれる人には滅多にお会いしたことがありません。神様はパーソナリティをお持ちで、生きておられる、と自然に感じさせる人、それがジョンさんでした。

それから、神様の願いが彼の願いそのものでした。どこの場所で出会う人にも、神様のことを知って欲しくて、何とかして紹介できるチャンスができないかな、といつも願っているような人でした。毎日コーヒーを買いに行くカフェの店員さんにも話しかけ、会話を楽しんでおられたようです。この方には苦手な人はいないのかな、と思うほどでした。

それから、真っ黒の表紙の聖書もあまり好きではないようでした。カラフルな表紙の聖書に謎の言葉を記入する仕掛けがある、と話してくれました。「このような表紙の聖書を持っていると、それを見た人に声をかけられるのですよ」と言っていました。自分の行動全てを使って神様を紹介できる工夫をする。本当に徹底した伝道者である姿に、何度も驚いたものです。

「神様は生きた人格(今現在、動いている存在)をお持ちで、人とかかわることが大好きなお方です」とそれが彼の信念でした。神様が生き生きとした人格をお持ちだ、ということを伝えるのを妨げる「何か」を本当に嫌っていました。自分の人生を100%神様に捧げた方で、神様もジョンさんを愛しておられる、と彼の様子を見てストレートに分かりました。「神様をお伝えできるなら、自分はなんでもしますよ!」というのが全身から伝わる方でした。優しい笑顔の奥にしなやかで強靭な信仰をもつ人でした。本当にまたお会いしたいです!

それでは、さっそく鍵となる内容をお伝えします。

神様はいろいろな文化の中で、素晴らしい形で人々に働かれています。それを見ることができます。望む結果を出すための唯一の方法などありません。多様な人々のグループごとに福音はいろいろな形でアピール可能だからです。

福音とは何でしょう。

分かりやすく言えば、「関りの姿」ではないでしょうか?あなたは父なる神と神の子イエス・キリストとどんなかかわり方(関係性)をしていますか?あなたの姿そのもの神様の福音を表すかたちそのもの…そう言っても過言ではないでしょう。
私たちが経験している神様との生き生きした関りの中では祝福の全てを経験できます。つまり罪の赦し、全ての関係の回復、喜び、平和、人生の目的、死後はどうなるかについて、自分とは何か、なぜ生きているのか、こういったことに対して神様は豊かに答えを与え祝福を下さるのです。
「聖霊さま、どうぞ私の人生にいらして下さい」と言ってください。その祈りで父なる神、主であるキリスト・イエスとパーソナルでダイナミックな関係に導き入れていただけます!

エペソ1:11(メッセージバイブル)に書かれているとおりです。
「自分が何者なのか、なぜ生きるのか、それはキリストが教える」

福音は「宗教の入り口」ではありません。又、イエスを信じたら「キリスト教」に入らなければならない、という事でもありません。「宗教」とは関係ないのです。神様と自分がパーソナルな関係なれる!そこに導いてくれるのが福音なのです。
E.スタンレー・ジョーンズは言いました。「我々はキリスト教という包装紙を破り、箱からキリストを取り出さなければならない」と。そうです、神様は小さな「箱」に入る規模ではないのです。

第二コリント3:2-3(メッセージバイブル)にはこう書かれています。「あなた自身の生き方そのものが、見るだけで誰にも神様を理解させる「手紙」なのです。それはペンで書かれたものではなく、神様の生きた霊でキリストご自身が書いた手紙です」

つまり、イスラム教徒やヒンズー教徒、仏教徒の友人は初対面からあなたを見ることで聖書とは、このようなものだ、と理解していきます。だから、あなた自身がキリストに似たものになっていくことはとても大事なことです。なぜならあなたの姿を見て彼らはキリストを理解するからです。パウロが心から望んでいたことは、キリストの存在が自分の中で大きな存在で在るのを分かって貰うことでした(ピリピ1:20)。

コロサイ1:27にあるように、キリストが私自身の中に「生きている」ことは、実はとても神秘的なことです。自分がキリストに似たものになっていくこと(1テモテ3:16)、そして「良い知らせ」である福音は神秘としか言いようがありません。(エペソ1:9、3:3-4、6-10)

エペソ2:14-18でパウロが言うように(ユダヤ主義、15節)敵意の壁がユダヤ人と異邦人を隔てるのです。宗教は人の間に壁を作ってしまいますが、私たちがキリストとパーソナルな関係を築くことで、この壁を壊すことができます。自分の宗教的な背景にかかわらず、キリストがいれば誰もが平和と一致を経験できます(もちろん、努力は必要です)。人間同士の間にできた難しい壁を取り除き平和と一致をもたらすなど、国連ですら実現不可能なことです。

では、これを成し遂げるダイナミックな神様との関係の中で、私たちは何をしたら良いでしょうか?神様がアサ王に言ったことを見てみましょう。「主の目は、その心がご自分に完全に献身している人たちのために力を現わそうと、全地を探しておられる」(第二歴代誌16:9)。私たちに対する神様の愛は本当に溢れんばかりに豊かです。そして私たちの神様への愛が深まると、福音がますますはっきりと私たちの中に表現されます。その結果、私たちは神様が遣わす「大使」のような役割を果たすのです。

2コリント5:17-21で「私たちはキリストのための使節です。神が私たちを通して勧めておられます」と言われるように私たちは周囲の人たちが神様と和解することを助けることができます。その結果、彼らも神様との素晴らしいパーソナルな関係を持つようになるのです。私達は神様の願いを代弁して伝えるメッセンジャーの役割を与えられたのです。

私の良い友人であるデイビッドは、対日貿易でオーストラリアの代表ですが、彼は妻と日本に住み日本語を学んでいます。日本の貿易政策に詳しく日豪間の交易事情にも詳しい彼は、もっと日本のビジネスパーソン達に良いアプローチができないか?自分には何ができるか、と常に考えています。このように、私たちの周りの人たちに神様を伝え、神様と人が関係を取り戻すために自分には何ができるのか、そのことを常に考えて100%自分を捧げたいものです。
ジョン・ウェスレーはかつてこのように言いました。「99%だけ忠実である99人より、100%神様に捧げて忠実に行動するたった1人の人を神様は使う。その忠実な人を通して神様は多くのことを成し遂げる」と。最高の「大使」は100%忠実である人を指すのです。

ここで、私たちが気を付けなければいけないのは、邪悪なものが巧妙に働くということです。キリストのなさったことは本当はとても「分かりやすい」ことです。しかし、その分かりやすさを小難しいものにする動きがあるのです。2コリント11:3が示すように「良い知らせ」はとても深い意味を持ちますが、本当はとてもシンプルで分かりやすいものです。「良い知らせ」を小難しくて面倒なもの、それを分かりにくい教義にまでする傾向には何らかの理由があります。

1コリント2:2でパウロは「あなた方と共にいる時には、イエス・キリスト、十字架につけられたキリストの他には何も知るまいと決めました」と言っていますが、この「良い知らせ」は全ての人が関わる様々な分野に影響を与え、変化させるほど力があります。霊的にも、肉体的にも、感情的にも、社会的にも、大きな影響を与えるのです。本当に、全部変えてしまうほどの力があります。イエスは実際、良いことをたくさんして下さって、多くの人たちを癒し、悪霊を追い出し、人類の病に触れて下さいました。多くの人たちの人生に介入し、偉大な変化を起こしました。

今日でも私たちが経験しているこの福音は人々を丸ごと包み込む、命そのものに触れなくてはなりません。その領域は私たちの家族、人間関係、経済的状況、仕事関係に及びます。そして、コミュニティ内での私たちの影響力を駆使し、貧しい人たちを思い遣り、社会的ジレンマがある困難な案件、社会問題への取り組み、など全てを包み込む力があるのです。このようにして、「良い知らせ」は内側から私たちを変える力があります。

「良い知らせ」は内側から私たちを変えていく力があるのに、教義とか難しい神学的解釈、「教会」の規則によって、人は生き生きした神様との関係から遠のいてしまう。そう言ってジョンさんはとても残念がっていました。そして、その教義を柱に生きている信徒や学者先生にはいくら説明してももう手の打ちどころがない、人の話を聞く耳を持たないから言っても仕方がないよ、と残念そうに話してくれました。だから、「子供のようになりなさい」と書かれていますよね、と笑って話してくれました。

インドにいるヒンズー教徒の友人、プラサド・クリシュナムルティは私にこう言いました。「イエスはキリスト教徒の神で、既に自分の信じる神がいる自分には関係ない」と。ヒンズー教には三億以上もの神々がいると言われています。プラサドはキリストを知ってみたい、と思ったものの、キリストを知ると、魅力がないキリスト教徒に改宗しなければならないと思っているようでした。そこで私は彼に言ったのです。

「良い知らせ」は宗教ではなく、神様とのパーソナルな関係を築くことなのですよ。だからヒンズー教徒としてイエスと関われば良いのです。キリスト教に改宗するなど必要ありません」と。

プラサドはこの説明にとても安心し、自分の立ち位置を変えることなく神様との新しい歩みを始めました。そして私は何時間も聖書を読みつつ、彼と話し合うことができたのです。間もなく彼の家族とも関わることができました。いろいろな機会に一緒に食事もしました。家族間の交流がありました。次第に、私たちの友情から「良い知らせ」の意味を分かってくれるようになりました。それから数年後には彼と彼の家族全員が福音「良い知らせ」に心開くようになり、彼らのヒンズー教徒コミュニティーにも影響を与えるようになっていったのです。

福音を再発見すること

ディスカッション用質問

  1. あなたは福音をどのように説明しますか?
  2. どうしたら未信者の友人が、福音を魅力的に感じるでしょうか?
  3. 私たちはどうやって福音を複雑なものにしているでしょうか?

単に「良い知らせ」だけではなく、神の国の「良い知らせ」を伝えたいと思います。

この数十年間、世界中のみ言葉が届いていない国々、とりわけアジアの非キリスト教国などにそれを届けようとする時に、神の国の重要性がまたここで浮かび上がります。

Eスタンレー・ジョーンズはインドの中でもカースト制度上位のヒンズー教徒と働いていました。100万部売れた彼の著書の「The Christ of the Indian Road」(1925)「インド途上のキリスト」に書きかれています。彼の人生の終わり頃には「The Unshakeable Kingdom and the Unchanging Person」(1972)、「震われない御国と変わらない人格」を著しました。彼の働きと著作は、20世紀の信徒たちに神の国が何よりも重要性であることを知らせ、大きな影響を与えました。

へブル12:27-28(メッセージバイブル)では、こう書かれています。「最後にもう一度揺り動かす」という言い回しは、徹底的な大掃除を意味しています。「揺り動かされることのない本質」が混乱しないで、きれいな状態に保たれるため、あらゆる歴史的、宗教的なガラクタを取り除くのです。何が残ったか分かりますか。揺り動かされることのない神の国です。また、へブル13:8にはこう書かれています。「イエス・キリストは、昨日も今日も、永遠に変わることがありません。」王は絶対に変わることはないのです!

四つの福音書を読むと、神の国について119回も書かれています。それらすべての中心がイエスが語ったこと、行ったことだったというのには驚きます。

それがキリストのメッセージであり(マタイ4:23)、彼の人生の目的でした(ルカ4:43)。宣教をスタートした当初からそれが焦点で(マタイ4:17,23)、八つの祝福(マタイ5:3,10)と山上の垂訓のテーマでした(マタイ5:19-20)。主の祈りの最初の願い(マタイ6:10)であり、私たちの生活の中で神の国を最優先にしなさい、と命じました(マタイ6:33)。

ご自分の目的を弟子たちに話した時、物語の中心が神の国でした(マタイ13:1-52)。復活後の40日間、弟子たちの前に現れたイエスが、最後に語ったのも神の国のことでした(使徒1:3)。

弟子たちの宣教でも神の国が重要で、ピリポのサマリヤでの焦点でした(使徒8:12)。三回の宣教の旅の後、ローマでのパウロのテーマも神の国でした(使徒28:23)。パウロの獄中での手紙でも「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」(使徒28:31)と書かれています。

では、神の国について聖書は何と言っているでしょうか?
第一に、それは素晴らしい神の国のことを誰も完全には理解することはできない「神秘」だということです(マタイ13:11)。
第二、それは目には見えないし、簡単に理解することはできないのです。
第三、神の国は「関係」にあります。それは父なる神、子なる神、そして聖霊である神様が、信じる私たちと関わってくださり、失われた人たち(まだ神様のことを聞いたことがない人達)とも関わってくださることを指します。信念や儀式ではないのです。

私たちは「教会」(church)とか「キリスト教」(Christianity)のことを主張せず、キリストご自身と深くかかわることが信徒を成熟へと導くと強く信じています(コロサイ1:28)。

私はバンコクで、大きな仏教の寺院の床に座ってタイの仏教徒数人と彼らの友人とおしゃべりしていました。そこで「良い知らせ」の話をしたのですが、それはとても自然な流れから始まりました。その寺院で祈り、更に深い話もしました。神の国は宗教的な構造や物理的な建物では定義できない。このような自然な人のネットワークの中から始まって、生き生きと働くものだとこの経験からよくわかりました。

私は日本内観学会という学会公認の「内観面接士」ですが、中には仏教的な要素があります。聖書の神様を信じると言いながら、仏教的な部分に関わるなんてどうなのか、と思っていました。そこで、その話をした時に、ジョンさんは笑って「そんなことを気にすることはないよ、そこの文化に居るあなたが自然だと思うことをやって、日本人であるあなたが日本の友人のことを知るのは大事ですよ。だから、日本人にとって自然な、手を合わせて人にお辞儀をする姿勢(内観法で行うもの)に違和感を感じることなどないですよ」と言われて安心したものです。彼は絶対に上目線になることなく、異文化を徹底的に尊重できる謙遜な信仰の持ち主でした。

別の時に友人のジョージと私は、彼のタイ仏教徒の友人たちと皆でチェンマイの有名な仏教寺院にいました。私たちがタイ仏教徒式にキリストを礼拝していた時、まだ神の国を知らない仏教徒の友人たちが質問してきました。彼らがお馴染みのくつろいだ場所にいたので私たちも、とてもいい雰囲気で話ができました。その状態を見た時思ったのです。神の国には「これをしなければいけない」とか、相手を排除する境界線はない。むしろその人が普段暮らしている自分のコミュニティ、そこに既にある人間関係から「神の国」は始まっていくのだ、と。又その同じ寺院の壁に、なんと聖書の言葉を見つけたのです。

第四、神の国は霊的なものであって物理的なものではない。「神の国は食べ物や飲み物に関することではありません。それは神があなたの生活にどうかかわっているか、それが大事なのです。神はあなたの生活のズレを直し、組み立て、喜びをもって完成して下さいます」(ローマ14:17 メッセージバイブル)。

第五、神の国は永遠です(24/7年中無休)。そして組織が存在する教会のように、物理的な見える形で表現することはできません。「教会」とは人を指すのです。24/7年中無休に存在する「関係」で定義するものです。エペソ人への手紙はそのことを示しています。ヨハネは体のバプテスマ(旧約聖書)を語り、イエスは霊的バプテスマを語りました(新約聖書)。ユダヤ人は過ぎ越しの祭りを語り、イエスは私たちの為に過ぎ越しの子羊になって下さったのです(1コリント5:7-8)。

旧約聖書での礼拝はローマ9:4のように神殿で行われましたが、新約時代は革命的に変わってローマ12:1-2にあるように「霊的な礼拝」になりました。このように新しい契約の下では24/7年中無休であり永遠、という理解なのです。
エペソ1:3-14で、パウロは世界中の人々の中で神様が行っている神秘のことを話しました。あなたがイエス・キリストとパーソナルな関係を持つと神様は御自分の「跡継ぎ」とみなして下さる、そう話しています。
神様の計画はその「神の国」を見えるようにすることです。地域に根差した人たちの中で、その相互人間関係にこそ神様を見出すことができます。

ですから、あなたの人間関係を使って神の国をしっかり見える姿で表すこと、これが「既に存在する宗教の中に神の国を表すこと、それがかなり重要なのです。神の国はそこに存在する「人間関係」によって見える形になります。そして、いろいろな隔たりを越えることも可能になります。

キリスト教という宗教は世界各地で歓迎されていないところがあります。しかし素晴らしい生き方をしたキリストが自ら示した「神の国」は、愛情に溢れた魅力を示しています。だから、その愛情に溢れた魅力によって「神の国」を世界の非キリスト教国の中にも知ってもらうことができるのです。

インドに住むヒンズー教徒やイスラム教徒の私の友人は、自分の宗教があるし、キリスト教徒になりたいと思うことは全くありませんでした。それもそのはず、キリスト教徒になることは、キリスト教を持ち込んだ英国人になるようなものだからです。英国人は自国の兵士たちの為に教会堂を建てましたが、インド人がその建物に入ることを許しませんでした。そのような歴史から、「キリスト教徒になるなど、とんでもない!」と思われていたわけです。

そこで、私はこのように説明しました。「イエスは【教会の組織】や【キリスト教】に連れ込むために私たちのところに来たのではありません。そうではなく神の国を知って欲しくて来たのだ」と。イエスがマタイ6:33で「神の国を第一に求めよ」と話した時、イエスの思いは明確でした。ここから現地の友人との真摯な会話が始まりました。「イエスとは誰なのか?」を知る旅が始まったのです。

福音書を一緒に読んでいくと、神の国の「良い知らせ」の本当の意味が分かります。とても時間がかかったのですが、求道者の中に聖霊が丁寧に語りかけているのを感じることができました。イエスは世界中の全ての人がご自分の御国に入ることを望んでおられます。そして神様との素晴らしい個人的関係を親しい友人との関りのように楽しむことを望んでおられます。

インドの最高学府の大学院で固体物理学の大学院過程を教えていた時、カースト高位に属する学生に出会いました。彼はバンガローにあるサティア・サイ・ババの大学で工学を学んでいました。私達に共通の友人がいたことで友達になり、いろいろなことについて話し合いました。友人のラドハクリシュナンに言われたことは、「あなた達西洋のキリスト教徒は私たちが大切にしていることの全てを捨て、異国の宗教に改心することを求めてくる」ということでした。「あなた方は我々の人格をひっかきまわす」とも言いました。彼と私は時間をかけて聖書を一緒に読み、共に歩きました。

このような話をジョンさんとした時に、私はよくどんな質問をするのか、と聞きました。参考になる質問集でもあったら良いのに、と思ったからです。そんな時、その人に一番ふさわしい質問ができるように、祈れば聖霊が導いて下さるから、大丈夫ですよ、と答えてくれました。私は心理カウンセラーですが、クライアントさんと話す時に、このジョンさんとの話をよく思い出します。それは、型にはまった質問をしないこと、ユニークな存在であるその方としっかり向き合う事、それをジョンさんとの会話から教えられました。きっと繊細な優しさで信仰の旅をしながら、友人を一人一人導いたのでしょうね。

エペソ2:11-22を読んでいた時、ラドハクリシュナンは私を見て言いました。「我々は同等なのですね。先祖が何世代にもヒンズー教の神々を礼拝しているから、自分は汚れたものだと思っていました。」と。自分たちは神の国の市民になれる、と彼は理解することができました。宗教的な背景が違うということは重要ではなく、キリストに従っていくことで私たちは神の国に入ることができる、そのことが大事なのです。神の国のメンバーである彼は、「ヒンズー教徒として」自分の家族の中で今まで通り暮らすことができます。その後、彼はお見合い結婚で遠い親戚のヒンズー教徒の女性と結婚しました。彼はイエスが言う「家族全体を照らす燭台の明かり」(マタイ5:15)になったのです。 そして彼は今、インドの有名大学で工学部の学部長で、「良い知らせ」を携え、多くのヒンズー教徒の学生に影響を与えています。

神の国を回復すること

ディスカッション用質問

  1. 神の国をどのように説明しますか?
  2. 神の国の「良い知らせ」のユニークなところは何ですか?
  3. イエスは、なぜそれほど多く神の国について語ったのでしょうか?

信徒全てが知るべきとても大事なことは、私たちには二つの誕生があるということです。それは、身体的な誕生と霊的な誕生を指します。

第一の誕生は身体的な誕生で、その人が生まれた場所と特定の時代を言います。第二の霊的な誕生は神様から「霊的」なものです。

イエスがニコデモに「あなたはもう一度生まれなければなりません」(ヨハネ3:3-3)と言われた言葉が意味するのはこのことです。第二の誕生、霊的な誕生によってニコデモは神の国を見ることができたのです。

この二百年間、信仰をもったばかりの信徒は自分が生まれ育った非キリスト教の宗教(ヒンズー教や仏教など)、自分が育った文化や家族を捨てなければならないと思っていました。このような思い込みをすることで、自分の家族や友人、コミュニティから孤立してしまいます。

しかし、今、その人に最初の誕生をお与えになったのは神様だと分かったのです。「彼らの為に神は、生きる時代(歴史)と住むべき正確な場所(地理)を決められました。そうされたのは、人が神を求め、もしかすると手探りで神を求め、神を見出すためです」(使徒17:26)と書かれているとおりです。

インドのカルナタカ州で生まれたあるヒンズー教徒の一家が理解したことは、「神様がそこの土地で自分たちに命を与え、その土地の遺産を引き継ぐようにされたのだ」、という事でした。

彼らの文化、宗教、言葉、歴史は神様が彼らに命を与えるとお決めになった場所によって与えられたものです。第一の誕生の時に独自のパーソナリティや身体的特徴、肌の色、家族の歴史も引き継ぎます。これらは全て神様のなさることです。もちろん、神様は国々を壊したり建て直したり(これらの要因は人の罪の結果でもありますが)、その過程にも介入しておられます。ローマ1:18-23ににあるように、贖いをする神様とそれに答える人々が居ることで、世界の文化等は引き継がれていくという傾向があるからです。

このようなことから、その人の第一の誕生、その両親、祖父母を知ることはとても大切になります。同じように、その家族の歴史、社会の中での彼らの位置、彼らの宗教、そして彼らの政治社会的価値観を知ることもとても重要です。

初代教会の時代、ユダヤ人でありつつ信仰を持った信徒が考えていたことはこうでした。異邦人は「異教徒」の文化を捨てユダヤ人の文化や宗教、社会に入らなければならない、と。しかし聖霊は違う方向に導きました。使徒15章で言われていることは、ユダヤ人信徒たちは「全ての信徒が『ユダヤ人』になることはなく、自分のもともとの暮らしに留まる自由がある」という事でした。

イエスは常にその人の第一の誕生を尊重しました。サマリヤの町への途上、イエスは井戸のところである女性に会いその場所に二日間滞在しました。その結果、多くのサマリヤ人がイエスを単なるユダヤ人預言者ではなく、それ以上の人物だと信じることができたのです。イエスこそ、この世の救い主だと理解できたのです(ヨハネ4:42)。

イエスが悪霊に取りつかれたギリシャ人から悪霊を追い出した話がありました。体に2000もの悪霊を宿していた人からイエスが悪霊を追い出し、彼を新しい人生に導いた話があります。この人は、ユダヤ人であるイエスの弟子になりたいと即刻願い出ました。しかしイエスは彼をデカポリス(ギリシャ語で十の都市)にいる彼の家族のもとに帰らせました。そこはアレキサンダー大王が建設し、のちにジュリアス・シーザーが一新した十の都市という意味の地域です。マルコ5:19では、この男は自分の家族のもとに帰っただけでなく、デカポリス中の人々のところに行ったと書かれています。

その結果、数か月後、マルコ8章では4,000人のギリシャ人男性がイエスと弟子の話を聞きにこの地域に集まったのです。サマリヤの女によってサマリヤに起こったことと、とてもよく似た動きが始まったのでした(自分が普段暮らしている場所でイエスを伝えることで始まる大きな動き)。

パウロはコリント人の第一の誕生を尊重し、その元々いた場所での暮らしに留まることを勧めました(1コリント7:17-24)。それは異教の寺院や異教の神への礼拝、性的に淫らな行為に関わることになることを意味しても、です。
パウロは異教の神々や性的不道徳を絶対に肯定はしませんでしたが、彼らの暮らしに留まり彼らと関わることで、パウロは彼らにイエスと神の国を紹介することができたのです。自分の人生を変える力のある、生きたキリストと深く関われるように、パウロは彼らを助けたかったのです。そのことで「霊的な生まれ変わり」である第二の誕生を経験できるからです。パウロは彼らに指導することで荒れた暮らしの中でも良い人生を送れるように助けたかったのです。彼らは正しくない環境に居ても、正しく暮らすことを学んでいきました。

第一の誕生は福音の動きを可能にし、第二の誕生は福音の純粋さを可能にします。カルナタカのヒンズー教徒のある家族は他のヒンズー教徒の家族と、何の問題もなくかかわっていくことができました。それは彼らの「第一の誕生」の場所が同郷だったからです。生まれ変わったヒンズー教徒の家族は他のヒンズー教徒の家族にも「良い知らせ」を紹介することができました。故郷が同じだったことが近い関係を築く助けになったのです。

このように、新しい信徒のアイデンティティを作る要素は二つあります。身体的な「第一の誕生」と神様が下さる霊的な誕生である「第二の誕生」です。

アンドハラ プラデシュのハイデラバッド出身のイスラム教徒の家族の話ですが、彼らは自分たちをイスラム教の背景を持って、イスラム社会に属するが、メシアであるイエス(Isa Al Masih) に従っている人間であるとも認めていました。東京在住の神道の一家の宗教は神道でした。そこに属してはいるが、自分たちは生ける神の信徒であると自覚していました。

ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒は自分の今の暮らしの価値観を捨てなければならない、キリスト教に改宗し、洗礼を受け、名前も変え、今まで暮らしてきたのとは違う文化に合わせた衣類や食べ物に変え、文化的にも改宗をしなければならないと考えます。ところが自分たちは尊重され、自分の第一の誕生を否定する必要はない、と分かると、福音は自由自在に世界中の神様を知らない人達へと広がっていきます。まさしく第一世紀に起こったようなことが起こり始めるのです。

マタイ16:13-20にあるように、イエスは弟子を四日間歩かせました。その中でイエスとは誰か、イエスの役目と弟子の役目に関する重要な会話が、シリアの異教徒の地(ピリポ・カエザリアはガリラヤ湖から北に25マイル離れたヘルモン山の麓)で記録されています。この地域の古代の名前はパン(牧羊神)にちなんだ大きな洞窟があって地獄の入り口だと信じられていました。人々が地獄に落ちないようにと、チベリアス・シーザーの像が建てられていました。まさにこの異教の地で、イエスは弟子に「人々は私を誰だと言っているか」と尋ねたのです。これはイエスが公に宣教を開始してから約一年半ほどたった頃の話です。そして弟子は「人々はイエスをユダヤ人預言者の一人だと言っている」と答えました。それからイエスは弟子に「あなた方は私を誰だと思うか」と尋ねました。ペテロが「あなたは生ける神の子、キリストです」と答えました。

人びとはイエスの「人としてのアイデンティティ」を理解しましたが、イエスの「神聖なアイデンティティ」を理解したのはペテロだけでした。それは神様が彼にご自身を現したからです。私たちの人としてのアイデンティティ(第一の誕生)は外側に見えるものですが、霊的アイデンティティ(第二の誕生)は霊で見極めるものです。2コリント2:14で言われるように、「神は私たちをいつも勝利の行進に加え、至る所でキリストを知る知識の香りを放つようにしてくださいます。」

イエスはご自分が何者か、どんな目的で、何をするために、この世に来たのかを話しました。イエスの役目はご自分の教会を作ることでした。そしてその王国の「鍵」を使うことが私たちの役目です。私たちが持っているその鍵は第二の誕生(変えられた暮らし、聖書、聖霊、祈り、愛に満ちた関係、など)に深くかかわっています。しかし、同じように第一の誕生に関わる鍵も持っています。つまり国籍、宗教的背景、社会的地位、文化的背景などが深くかかわっているのです。この部分に洞察や生きた神様を深く知るための内容が含まれているのです。

ある特定のコミュニティに「神の国」のことを伝えるには言語をマスターすることが大事です。言語をマスターすれば、その社会の人間関係も分かるし、どのように関わったら良いのか、その鍵を知ることもできるからです。何にもまして、その言語で話すことで彼らの肝の部分に届くことができます。彼らの文化、歴史、社会的構造(一族、カースト、部族、社会的階級など)を教えてもらうことはとても大事です。

彼らの価値観を理解するには彼らが敬意を払っている英雄を知ることも大事です(中国の学者であり作家、エッセイストのJohn SungやRan Yunfei)日本では内村鑑三、香川豊彦、インドのMahatama Gandi, Sadhu Sundar Singhなどです。お役に立ちたいと私たちが思う相手の人たちの霊的、儀式的伝統を知る必要があります。そして彼らの家族とその国での暮らしに大きな影響を与えている、文明が持ち込まれた時の価値観なども知ることはとても大事ですが、そういったことを理解するためにわざわざ難しい学問的な方面から知る必要は全くありません。むしろ普段暮らしている場所で、友人と個人的にざっくばらんな話を聞いた時に、宗教的な信念とか様々な宗教的な行為のことを教えてもらえばいいのです。

第一の誕生と第二の誕生を再確認すること

ディスカッション用質問

  1. あなたの第一の誕生を説明してみよう。第二の誕生のストーリーを話してみよう。
  2. あなたが導きたいと思っている未信者の友達の、第一の誕生について何を知っていますか?
  3. あなたが福音を伝えたいと思っている人たちの宗教的背景に対して、あなたが大事だと思う王国の鍵はどんなことですか?

信徒になったばかりの人たちが自分の家族や周りの人たちと関わっていく中で、その関りが「教会とは何か」を教えてくれます。信徒が神様との関係を深めていく時、他者からの励ましが必要になってきます。新約聖書には「教会」を構成する人間関係を表現する言葉、「互いに」がたくさん出てきます。例えば、互いに愛し合いなさい、互いに祈り合いなさい、互いに従いなさい、等です。

では、神の国の「良い知らせ」に関して「家族」にはどんな役割があると思いますか?

アブラハムはユダヤ人国家でとても重要な人物ですが、そのアブラハムの時代から既に福音の中心は「家族」にありました。神様がアブラハムとその家族にお与えになった約束には、「この地球の全家族があなたを通して祝福される(創世記12:3)」と、又ガラテヤ2:8には福音はまずアブラハムに伝えられた、と書かれています。創世記2:1-3を読むと、この良い知らせの中心は「家族」だと分かります。そして、家族が「教会」の自然な姿を表現しているのです。

ギリシャ語で家族を指す言葉、オイコス(oikos)は新約聖書に114回も書かれ、へブル語で書かれた旧約聖書にも「家族」は900回以上記載されています。又テモテ3:15にも神の「家族」は生ける神様の「教会」であると記載されています。

聖書の中にこの言葉が出てくる回数を見ても「教会と家族」には深い関連があると分かります。つまり、「教会」とは、福音書と使徒行伝の中でも「建物」のことではなく「家族」を指していると理解することができます。新旧約聖書にこれほど多く書かれている数字から考えてもかなり重要な言葉だと理解できます。

ところで、ローマ16:5の翻訳で注意したいのは、「彼らの家の教会によろしく伝えて下さい」という言葉です。厳密にいえば「彼らの家の中にある”教会”に宜しく伝えて下さい」ということを言っていて、指しているのはその家庭の中の人間関係のことです。

家族の暮らしはイエスが実践したことの中心をなすものでした。神の国の訪れのことを「家族」を使って表していました。マタイ8章、9章だけでも8つの家族のことが記載されていて、神の国の訪れと「家族」にはとても深い関連があること、福音の中心に家族があることがこれらからも理解できます。家族という文脈の中で神の国の福音が表されているのは重要なことです。そこで、このみ言葉、マタイ5:16にあるように、「家を開放して、必要なものを惜しまず分かち合う事、人の心を開くことで人々も神様に心が開くきっかけになる」のです。

また、家族は何世代にも及ぶ弟子訓練の要でもあります。1コリント16:15で書かれているステファノの家族全体が自然な形で他の家族と関わりを持ち、宣教を担っていたことが分かります。何世代にも及んで家族をキリストの弟子として訓練するには戦術的になることも重要です。

申命記6:4-9では家族を訓練する時に大切なことが書かれています。これらの聖句はシェマ(へブル語では、おい、しっかり聞きなさいよ!という意味)と呼ばれユダヤ人の信仰告白にもなっています。毎日暗唱し、安息日の会堂でも暗唱されていました。(マタイ22:37-38、マルコ12:29-30、ルカ10:27参照)。

家族はリーダーシップの基礎をなすもので、執事の条件も書かれています。神の国のリーダーシップは組織的なもので、人の人気投票等とは違っています。ガラテヤ1:1-2にあるように神様からの任命です。長老や執事の各個人の暮らし方や彼らの家族の暮らし振りは、神の国のことを伝えていく上でとても重要な項目でした。

また、神様の祝福も家族を通して注がれます。アブラハムの信仰があったから何世代もの家族に祝福が注がれたのです。第二の誕生を知り神の家族になると私たち、家族、そして他の家族にも神様の祝福が注がれます。誰もが地上では家族を持ち(第一の誕生)、神の家族になること(第二の誕生)が福音には重要です。なぜなら、これは周囲の家族にも大きな影響を与えるからです。

ここに嫌われ者の、取税人ザアカイの話を引用します。イエスはザアカイとその家族のことが気になりました。そしてルカ19:9のように、「今日救いが、この家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と記載されています。一人の、ザアカイという人間が第一の誕生を知り第二の誕生を受け入れることで、その家族にも救いが及んだことが分かります。ここが個人に目を向けがちな西洋人のものの見方と大きく異なるところなので気を付けなければなりません。

インドでアショクの家族とは数年にわたるお付き合いがありました。ヒンズー教徒同士の合同家族のメンバーが福音に心を開くようになりましたが、それは非常にゆっくりとしたプロセスでした。

ジョンさんとの会話で、ここに書かれているように「それは本当に時間がかかるのですよ」とよく話してくれました。おそらく、現代のようなスピードがある時代では考えられないようなゆっくりしたプロセスでしたが、祈って祈って忍耐強く彼らに寄り添ったのだろう、と察しました。新幹線のような仕事のこなし方をするジョンさんですから、最初は随分じれったく感じたことでしょう。その時間がかかるプロセスを通して彼独自の忍耐が訓練されていったのかな、と思ったこともありました。その為か、彼の口癖は「in due course」でした。「又それね!」と言ってよく笑ったものです。きっと彼の伝道生活の賜物なのでしょう。あの穏やかさも訓練された忍耐の結果だったのでしょう。彼の忍耐強さや穏やかさ、今でも本当に懐かしく思い出します。

遂にアショクの暮らし方の変化に気付いた彼の祖父が彼に質問をするようになりました。二人は簡易な英語の新約聖書を使って聖書を読み、問答を繰り返すようになりました。聖書を読み終えた祖父は「自分の名前や宗教を変える必要があるのか、教会に出席し、キリスト教徒の食事の流儀に従わなければならないのか?」と聞いたので、アショクは「その必要はない。ただイエスを信じればあなたは神様の家族の一員になって神の国に入れる」と話しました。祖父は本当に喜び、「神とその御子のイエスを信じる」と言いました。そして約50人の家族を集め、「ヒンズー教徒の立場を捨てずに生ける神と御子を信じることで罪が赦され永遠の命を与えられる」、と皆に伝えました。そのことで多くの家族が良い知らせに心を開くようになったのです。

第1世紀の人たちにとって基本的に人との関わりと言ったら家族同士の関りのことでした。そしてイエスはその家族間の自然な関りを通して信仰に導いたのでした。新約聖書の中では、コルネリウスの家族(使徒10-11章)が注目に値します。彼の家族は最初にキリストを受け入れた異邦人の家族の一つですが、そこには家族内にある7つの自然なネットワークを見ることできます。

  1. 直近の身内
  2. 親戚
  3. 親しい友人
  4. 仕事の同僚(兵士)
  5. 彼のために働いた人たち(召使)
  6. 隣人
  7. 困っている人たち

このように見るとコルネリウスの家族(使徒10-11章)に関わっている人たちでできている自然なネットワークを示す古典的なオイコス(oikos)の事例です。

このことはジョンさんの長い伝道生活から得られた、深い洞察による知見だと思います。後に重病を患う奥様の介護をする中で「夫婦」の関係が家族(オイコス)の基盤となるから最優先順位だとの結果に行きついたとシェアして下さいました。

人は誰でも自然なオイコス(oikos)に属しますが、福音がその家族の中に、オイコス(oikos)に入るとさらに進んで「霊的なオイコス(oikos) 家族)になります。そしてその霊的なオイコス(oikos) 家族こそが「教会」なのです。

新約聖書にはエクレシア(ekklesia)というギリシャ語の言葉が114回も出てきます。普通は「教会」と翻訳しますが、使徒19:32、39、41では「集会」と翻訳されています。「人々の集まり」という意味ですが、使徒19:39のように法的な集会の時に使うこともありました。呼び出されて集まった人たちの集まりのことを指すのがエクレシア(ekklesia)ということでした。つまり新約聖書にある「教会」は定期集会や建物を意味していません。互いに関係性がある人々という意味でした。しかし、今日では「教会」というと建物や、組織化された集会を指します。なぜそのような変化が起こったのでしょう?

ここからの説明はJohn氏が常に力を込めて話して下さったことなので、注意して読んでいただきたい内容になります。聖書の真意が政治利用された事例、残念な史実として話してくれました。

敬虔な儒教の家庭に育った内村鑑三は札幌農学校で学んでいる頃、敬虔なクリスチャンでマサチューセッツ農科大学の学長だったウィリアム・クラークに出会いました。感銘を受けた内村はイエスを信じました。後にアメリカで神学を学ぶも身近で見たキリスト教に大変失望して帰国しました。その経験が基になり「教会とは何か」を問い続けた結果、制度的な教会とは違う運動を始めたのです。

内村は研究の中で英語の「教会」という言葉はドイツ語のキルヒェ(kirche)から来ていることを発見。Kircheはギリシャ語ではキリアコン(kyriakon)から来ていて新約聖書には出てこない単語であって、宗教的建物を意味していました。現在、英語のchurch(教会)には二つの意味があります。互いに関わりのある信徒を指す場合、又、宗教的な定期的な集会が行われる建物を指す場合です。

ジェームズ国王の時代に聖書の翻訳が行われました。王はエクレシア(ekklesia)というギリシャ語の言葉の翻訳にそれ以前の聖書で使用していた英語の「集会」や「会衆」の意味になる言葉を使いたくなかったのです。その理由は、当時キリストに立ち返る信仰復興の動きがありましたが、彼らは家で集まる「家庭集会」という形を取っていました。そして、その動きは国王の権威の下にある英国国教会に加わることを拒否していました。

そんな中、ジェームズ国王は翻訳者が従う15の指針を出しました。エクレシア(ekklesia)の訳語に「チャーチ(教会)」を使わなければならない、という指針でした。そうすることで礼拝の場所は国教会である、として国教会以外のグループの信用を落とそうとしたわけです。国教会のトップはジェームズ国王本人でした。真に礼拝されなければならない、敬意を払うべき対象は一体どこに行ったのでしょうか?

新約聖書において教会を指す大事な部分は「人」なのです。神様と個人的な関係を持っている人々、互いに関わり合っている人々、失われた人々、愛に裏打ちされた関係を指すのです。

この人々の集まりが真に「神の国」を表わしています。状況によっていろいろな形になりますが、公式や非公式に関わらず、私たちはこの人間同士の関係を自由に大らかに楽しんで良いのです。自然な教会とはどんなものか、と思う時に、それは一週間24時間ずっと関わっている家族の場合もあれば、必要な時だけの集会もあり、教会の形は実にいろいろです。この考え方をすれば集会は自由自在に変化して良いものです。そして今までなかったほど福音を前進させました。

新たに信じた人達は、連絡を頻繫に取り祈り合い、御言葉からの学びをシェアしています。毎週日曜日に複数の家族が集まり、直面している問題を話して励まし合ったり、聖書を読み祈る、という事をしている人たちもいます。遠方の人とスマホ経由で繋がっている人たちもいます。様々な宗教や、無宗教が支配的になっている社会では、このような多様な形をした集まりも「教会」なのだと分かれば、信徒は誰かに指示されることもなくなります。自分と神様の関係の中で、いろいろなやり方を使い、自由に、自分自身で信仰の歩みをして良いのだ、そういう自由があるのだ、と分かるのです。

このような形の教会は、「伴走者」に助けてもらうこともできるし、何かの支援や誰かの助言を受けることもできます。その人の暮らしの中で丁度良いやり方で関わることもできます。つまり、自分の暮らしの中で自由に行えば良いのです。

教会は家族から始まる、その関係性を認識すること

ディスカッション用質問

  1. あなたは教会をどんな風に理解していますか?それを書いてみて下さい。
  2. あなたの家族は教会ですか?二人の人が互いに関わる時、それは教会ですか?関りのある二家族は教会ですか?定期的に集まるのが教会ですか?あるいは、関わりたい時は何時でも人と関われる、そんな自由な状態を教会という事はできるでしょうか? 
  3. 申命記6:1-9にはユダヤの国では家族に守るべきことを教え訓練することが書かれています。旧約聖書で与えられた大宣教命令だと彼らは思っていました。マタイ28:18-20には、新約の大宣教命令が書かれています。イエスが語る国を弟子にする、ということを初期のユダヤ人の弟子たちは、いったいどのように理解したのだろう。これを考える時、新約の新しい宣教命令「あらゆる国の人々を弟子としなさい」について、弟子たちは家族をどんな位置づけにしたでしょうか。

聖霊がいつも居て下さること、聖霊の力、働きを完成させて下さる方だと知ること、さらに聖書を読むとき聖霊に耳を傾け、その存在を信頼することは信仰をもったばかりの人にはとても大事です。箴言3:6には「どこに行っても、何をするにも、神の声に耳を傾けなさい。神こそがあなたが脱線しないよう正しく導いて下さる方です」とあります。信仰をもったばかりの人は聖書を読み、聖霊が導いて下さるようにと神様に祈ります。聖霊は罪を示し、迫害などがある難しい状況でも神様に信頼して近づいてくる者に慰めを与えて下さいます。

さて、イエスを信じた後、ヒンズー教徒は偶像に捧げた食べ物(1コリント8:1)をどう扱ったら良いのかという問題で悩みます。私が関わったヒンズー教徒の人たちはその問題に1コリント7-10章から答えを導き出しました。特に8章から寺院の中での振舞い、偶像に捧げられた食べ物の扱いへのヒントを得ることができました。混合主義につながってしまう悪霊への礼拝など、彼らが気を付けるべきことも分かりました。

更に1コリント9:19-23にあるように、外から来て彼らに耳を傾け、励まし、共に歩む伴走者であるという私の役目も理解してくれました。この部分は西洋では物議をかもす場所なので20以上もの注解書を調べました。しかし、イエスを信じるヒンズーの人たちがあのようにシェアしてくれた洞察を、注解書のどこにも見出すことはできませんでした。このようなことを体験してから、彼らの洞察はまさしく聖霊が教えてくれたものだったと理解するようになりました。ヨハネ14:26にあるように、「聖霊があなた方に全てのことを教えて下さいます」というみ言葉が本当であることを、私はこの目で見せていただきました。

新約聖書の翻訳も理解しやすいものが必要です。西洋からの直輸入のような翻訳ではだめです。それから西洋人が普通に使っている表紙に十字架がある聖書も、イスラム教徒の友人にはよくありません。というのも、十字架が剣を彷彿させるので適切ではありません。イスラムに対するあの酷い十字軍の剣を思い出させるからです(このように隠されている思いを知ることはとても大事です)。

聖書の表紙が現地の言葉の表紙であれば親しみがわきますし、章や節を区切る数字がない聖書を使えば聖書の展開が物語のように把握しやすくなります。そして帰納的な読み方、自分にとってどんな意味があるのか、と考えながら読む方法はとても良いです。なぜなら読者をこの結論に導きたいという質問や解釈が準備されている演繹法的な読み方と違って、聖書の内容が自分にどんな関わりがあるのか、それが分かるので聖書の言葉が受け止めやすくなります。

ジョンさんは「この個所で、あなたはどんなことに気が付きましたか」というような質問を良くしてくれました。この答えに導きたい、このように答えるのが正解、などと全く思わない。どんなことを答えても静かに聴いて下さり、「ではなぜそう思うのですか」とあくまでもその個人がイエスのことを深く理解しやすいように助ける、それが徹底した彼の姿勢でした。私が質問したことに「それは良い質問ですね」とよく言ってくれたので、「よくその答えをしますね」とコメントした時には、「質問が難しい時はそうやって時間稼ぎをするのですよ」とほほ笑んでいた笑顔が忘れられません。本当に優しい先生で「それは間違っていますよ」等と一度も言われたことはありませんでした。どんなおかしな質問や感想にも聖句を引用して真摯に答えて下さった、素晴らしい導き手でした。

信仰をもったばかりの人たちは家族、友人、隣人、同僚の為に祈るようになります。イエスを愛するヒンズー教徒の多くが霊的な戦いを経験しますが、そのような時に応戦できるのは聖霊の助けがあるからです。神様を求めている人の心の中をよく知って、その心を開くことができるのは聖霊の力です。そしてその人のことを祈るとりなしの祈りによります。1サムエル12:23にありますが、彼は素晴らしいとりなしの祈り手でした。

アメリカ人宣教師ジョン・ハイドは46歳という短い人生でしたが聖書に従い通しパキスタンに福音の種を蒔きました。その後に何百人もの人がイエスを受け入れました。1979年にマザー・テレサにお会いしましたが、彼女は「私の秘密は簡単ですよ、ただ祈ることだから」と言っていました。毎朝二時間祈りそして聖書を読むのが習慣だと話してくれました。

イザヤ59:16で、「神様はとりなしの祈りをするものがいないことに驚かれた」とあります。エゼキエル書22:30でも神様は「その破れ口に立つものを探し求めたが一人も見つからなかった」と言っています。み言葉が届いていない人々の為にとりなしの祈りを捧げる人が必要です。あなたは自分の家族にとりなしの祈りをしていますか?アブラハム、モーセ、ネヘミヤ、ダビデ、ダニエルは自分の民の為にとりなしの祈りを捧げました。あなたのとりなしの祈りは何世代にも及ぶ影響があるのです。

信仰をもったばかりの人たちは聖霊の働きによって自分がキリストに似たものにされていくのを証していきます。「そして聖霊である主は私たちがキリストの栄光の姿に変えられるにつれ、ますますキリストに似たものとして下さいます」と2コリント3:18にあるように、主の栄光を見つめ、根本から確実に変えられていく信徒は、その生き方がコミュニティの中で魅力的に映ります。

新たに信じた人たちは、自分と家族は暮らしや文化の中で何をそのまま維持するのか、更に解釈をどのように変えるべきか、何を拒否するべきか、これらのことに直面するようになりますが、信仰によって分かるようになります。何度もお伝えしますが、この働きは聖霊によるものです。マタイ3:11-12にある通りです。

聖霊の存在を喜ぶこと

ディスカッション用質問

  1. 今日のあなたの暮らしの中で聖霊の役割を説明して下さい。
  2. あなたの中で、聖霊と祈りにはどんな関連がありますか?
  3. 自分のいる文化には、いろいろな側面があります。それをそのまま保持するか、解釈を変えるか、あるいは拒否するか、それを聖霊が助けてくれます。これはあなたの暮らしの中でどんなことになるか説明して下さい。

良い知らせは新たに信じた人たちに素晴らしい自由を与えます。 罪の報いからの自由、罪の力からの自由、そういったことです。ローマ6章には聖さに至る5つの段階が書かれています。 自分はキリストと共に死んで、甦ったこと、そのことを認め信じること、自分自身を神様に捧げること、義の奴隷になること、そして、聖さに導かれること。これらの段階が聖化の段階です。

福音が与えてくれる大きな自由には、「制度からの自由」があります。その制度とは宗教と世俗の両方に見られる「制度」です。ガラテヤ書4:3は「この世のもろもろの原理の下に奴隷となっていました」と言っています。9節ではその状態を「弱くて惨めな原理」が私たちから自由を奪うと言っています。更にガラテヤ人への手紙ではこのように書かれています。「誰も私たちにユダヤ教とかキリスト教などの宗教的な制度を強要することはできないが、互いにキリストに自由に仕えることができる」と。

パウロはそのようなこの世の制度から自由であったからこそ違った制度の中でも活動することができました。このように私たちも「ある制度」から自由になった時、逆に言えばその制度の中で自由に生きていくことができるのです。例えば、ヒンズー教からの自由を勝ち得た結果、そのヒンズー教の下で自由にふるまうことができる。そういうことです。もうその人は自由になったのですから、ヒンズー教がその人を支配することはないからです。

多くの場合、福音のことで影響を与えた人の「良心」が私たちに最初に大きな影響を与えています。1コリントでは、4つの良心について書かれています。信仰を持たない人たちの麻痺した良心、新たに信じた人たちのまだ弱い良心、恵よりも律法に支配されている律法主義的な信者が持つ良心、そして成熟した信者の持つ良心、この4つです。

では、安息日や十分の一献金の厳守などはどう考えたら良いでしょうか?異邦人もモーセの律法に従って割礼を受けなければならない、とユダヤ人が主張したと新約聖書にも書かれています。歴史上には、あるキリスト教の特定の教派に所属する真面目な信者たちが、新たに信じた人たちに対して自分たちの教派の伝統や規則を守るべきだ、と主張した人達もいました。今日のクリスチャンの中にも同じようなことを言う人たちがいます。イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道などの社会に属する人たちがイエスを信じた場合、生まれ育った自分の居場所から距離を置き、キリスト教の文化や規則に従って暮らさなくてはならない、というのです。

しかし、それの考え方だと新たに信じた人たちに、神様がお与えになった自由を剥奪することになります。それは恵みとは程遠い。律法と様々な規定に支配された信者たちの「良心」が押し付けられ、このような結果になるのです。そして私たちは多かれ少なかれ、同じような間違いをしてきました。

インドの、北カルナタカ出身の若者が良き知らせを受け入れ、自分のコミュニティに戻り、主イエス・キリストを知らせたいと思い家族全体に一生懸命働きかけていました。一年も経たずして約300もの家族が生きて働いている神様を経験したのです。ところが、しばらくして、ある教会開拓のグループがやってきました。そして新たに信じた人たちに「洗礼を受け、改名し、キリスト教徒になり、教会堂を建て牧師を任命しなければならい」と言ってきました。その教会開拓グループは海外からの資金で大きな教会堂を建て、外部の人を正式牧師に任命したのです。

数か月後、彼らのコミュニティに土足で乗り込んできたこの外国人たちにヒンズー教のリーダーたちは腹を立て、その教会堂を破壊しました。その結果、混乱が生まれてしまい、福音の働きが起こっていたにもかかわらず、それが台無しになったのです。私たちはこの教会開拓グループのしたことに真っ向から挑みました。自分たちが何の宣教もしていない場所で、そこの人達のコミュニティに土足で入り込み、キリスト教社会の決まり事を押し付けるのか、と。そして速攻この場から出て行ってほしい、と言いました。その後、福音に心を開いていたヒンズー教のリーダーたちが戻ってきて、外国からやって来たその人たちをその地域から追い出してしまいました。

同様のことが、ガラテヤ5:1に書かれています。パウロは「キリストが私たちを解放して下さったのは自由のためです」とはっきり主張しています。今日、クリスチャンの中には、新たに信じた人たちから自由を奪うだけの「キリスト教徒化」の役割に専念する人たちがいます。このことには強く抵抗すべきです。

世界各地のいろいろな状況の中で、信徒たちはこのような圧力を断固として拒絶して良いのだ、と理解する人たちが増えています。私達は新たに信じた人たちとともに歩く「伴走者」として、その圧力を跳ね返す行動を支援しています。実際、パウロはガラテヤの人々が、エルサレムからくる割礼推進派の信者たちの圧力に屈しないよう援助しました。このように圧力に屈しない時に、福音はますます力を帯びて人びとに広がっていきます。

ジョンさんは、教会開拓グループがやってきて、それまでの働きがめちゃくちゃにされてしまったことの詳細を話して下さいました。現地の人の文化や暮らしの背景などを一切考慮しない、そのグループの横柄な態度に珍しくとても憤慨していたことを今でも覚えています。話しぶりは穏やかでしたが、「神様の愛を混乱させてしまうその開拓宣教グループの行動は断じて許せない」と強い信念を伝えてくれました。そのグループの行ったことは、赤ちゃんを産み、大事に育てていた母親のところに、いきなり母親だと名乗る人物が来て、「今日からあなたは私の子供だから、この服を着て、名前も変えて、これを食べなさい、私の言うことを聞きなさい」というようなものすね。聖書の神様の愛を伝えようとしてやって来て、そのような横柄な態度で人に接するのは、受け入れられません。今そんなことをしたら、裁判沙汰です。忍耐して祈り、時間をかけて神様を伝えて、やっと結びかけた実を滅茶苦茶にして、本当に何という事をしてくれたのか?とジョンさんは思ったことでしょう。

彼はいつでも神様が栄光をお受けになることだけに注力していた人でした。そして、福音の前進を阻止するものに、穏やかでも断固とした態度を取る強い信仰に感動しました。その話をご本人から聞けたこと、本当の「へりくだり」とはどういうことなのか、目の当たりに見せて頂けたのは特権だと思っています。

福音は自由を与えると知ること

ディスカッション用質問

  1. 神の家族になった時、キリストが私たちが下さる自由とはどんなものか、説明して下さい。
  2. ヒンズー教、イスラム教、仏教、神道の背景を持つ人が、彼の現実の暮らしの中で何かしらの規制を感じても、キリストが下さる自由の中で暮らせるように、どんな支援をすることができますか?
  3. キリスト教の何が、新たに信じた人が持つ自由を制限することになるのでしょうか?

今は霊的な賜物の本質は以前よりずっと分かりやすくなっています。なぜなら、「この人が?」と思うような人たちが福音に耳を傾けたり、福音を伝える働きが一歩前に進んだ、そういったことが起こるからです。それらのことが起こっていくのが、なにより賜物が活かされたことの証拠だからです。エペソ4:11-12に書かれているように、主が私たちをお用いになって、実現させたいことがあるのです。その為に神様は私たちを整えて奉仕の働きをさせるのです。

牧会や信徒を養い育てるといった賜物を他の賜物より重要だと考える時、福音はのびのびと広がっていくのを妨げられてしまいます。カソリックによる反宗教改革の時期に生まれた神学校がその例でした。そして後に新たに形成されたプロテスタントの社会もこの権威を強めました。

今日、いろいろなプロテスタントの神学校が、互いに自分たちの原理を言い合って論争しています。違う立場を主張する新しい教派も次々と生まれています。主導権を握ろうとする権威主義的なアプローチが、こういった教派の増殖を起こしているのです。しかし、そこに代わる立場もあります。主導権を握ろうとする権威主義的なアプローチではなく、霊的な賜物を大事にするサーバント・リーダーシップ(仕える者の姿を取ることでリーダーシップを発揮する)です。

ここで、使徒、預言者、伝道者、という新しい賜物のこともお話ししましょう。まだ福音が届いていないところへ届けるには、これらの賜物は必要不可欠になります。

ローマ15:20にあるように、「使徒」は「キリストの名がまだ語られていないところに福音を伝える」ことに独自の重荷や能力を与えられている人たちです。「ギリシャ人にはギリシャ人のように」とあるように、その人の立場になって考えることができる人たちです。

「預言者」は、まだ福音が届いていない地域に暮らす人たちの、その地域にある特有な罪を鋭く見抜くことができる人たちです。そして神様が喜ぶ生き方を伝え、そのような暮らしができるよう励ましを与えることができます。主が彼らに準備しておられる、ユニークで明るい将来を理解できるように導くことができる人たちです。

「伝道者」は、それほど苦労しないで人々をキリストに導くことができます。彼らの文化の中で、あるいは文化を超えたところでも、そのようなことができるのです。伝道者は求道者に福音を分かりやすく説明できるし、主と共に歩く道のりを一緒に行くことも難なくできます。

これら3つの賜物を使うことで、新たに信じた人たちがもともといた自分の暮らしを離れることなく、そのままそこで生活し、かつ弟子になるための訓練も行うことができます。養い育てたり、教えたりする賜物は新たに信じた人たちが難しい人間関係を通して成長して行くのを助け、信仰が強められていく過程になくてはならない働きをします。

旧約聖書では、イスラエルの人々が国々の光になりました。イスラエルの民の神様を見るため、国々がイスラエルに来る、という事が大事なこととして語られています。シバの女王はソロモン王を訪ねて来てその時に神様の栄光を明らかに見ました。しかし、新約聖書の時代ではそうではありません。大事なことは人が「来る」のではなく、私たちがそこに「行く」のです。全く逆です。

旧約聖書に書いてあるような状態に安住してしまうのは簡単です。相手に「教会に来て下さい」とは言うものの、信徒が自ら未信者の友達の文化や暮らしの中に自分から飛び込んでいかないのが普通です。彼らの暮らしや文化の中に溶け込んで彼らを深く理解しようと、ほとんどの信徒は思いません。

この話はジョンさんがよく話していました。身近なところでは、私は現在シドニーに住んでいますのでローカルな話になりますが、イスラム教徒やほかの宗教を持つ人たちが多く暮らして街を作っているような地域にわざわざ自ら引っ越してそこで暮らそう、という信徒たちをあまり見受けません。そこで、ジョンさんはセミナーなどでよく話したそうです。「わざわざ外国に出て行かなくても、海外に宣教師を送らなくても、例えばシドニーの南や西の方にはキリスト教徒ではない人達がたくさん住んでいますよ!そこに自ら引っ越して行き神様を伝えたらどうでしょうか?」と。私は彼がニコニコしてそう皮肉たっぷりに話すのが面白くて仕方ありませんでした。

イエス様は私たちの暮らしに入り込んでくださった方です。私たちが「良い知らせ」をよく理解するためにそのようにして下さいました。ルカ19:10にあるように、「イエスは失われた人を探し、救うためにこの世に来られた」からです。 使徒、預言者、そして伝道者の賜物を用いる時、福音が届いていない人たちの間で福音は自由にのびのびと広がっていくようになるのです。私たちの注意が「教会」と「教会の安定」に向かった時、私たちの信仰は次第に弱っていきます。新しい空気の循環がなくなり、窒息してしまうからです。福音が届いていない人たちと活発に関わっていけば、神の民に新しい息が吹き込まれ、窒息するなどありえないのです。

聖霊の導きがある中で、これらの要素はどれも同じように重要になります。この神様との旅を始めていけば、これら以外の要素も明らかになっていくことでしょう。しかし、私が今まで話してきた7つの戦略的キーポイントは、神様の福音が前進してくために、先ず心に留めるべき要素です。

賜物を解き放つこと(あなたの賜物を活かしなさい!)

ディスカッション用質問

  1. あなたの賜物は何ですか?
  2. 自分の今の暮らしの中で、自分の賜物を活かすことはできますか?
  3. 牧師の役割は分かります。では、使徒、預言者、そして伝道者という役割はあなたの暮らしの中でどんなことをしていくと思いますか?

神様はあなたにどんなことを望んでおられと思いますか?
少なくとも3つのことが上げられるでしょう。

第一に、祝福をもたらす人になってください。あなたが今暮らしている場所で収穫を刈り取るのです。それには、先ずあなたの家族全員、親戚の人たち、職場の同僚、近所の人たち、中の良い友人、何か必要のある人たちの名前を挙げてリストを作りましょう。それから主に聞いて下さい。「次に何をしたら良いですか」と。神様はあなたの心に何人か気になる人たちをお示しになるでしょう。そして又聞いて下さい。「この人たちに何をしたら良いですか?」と。それは、一言のメッセージを送ることかもしれません。電話をすることかもしれません。あるいは誕生日のプレゼントを送ることかもしれません。

やさしい気持ちで彼らの話に耳を傾け、彼らが本当に伝えたい心の声を聴いて下さい。その人の痛みに寄り添ってください。その人にずっと関わりましょう。やがて時が来れば友情が芽生え、より関係性が進んでいきます。

その人とその人の家族も一緒に、イエス様のことが分かるようにいろいろな面で援助してあげてください。その関係を大事にして、その人たちが神の国に入るのを助け、更にその他の家族、親戚の人たち、友人、同僚、近所の人たち、特別に助ける必要のある人達を自然な形で助けてあげてください。

聖書によると、パウロの家族は少なくとも8人の親戚がいたようで、そのうち6人がローマ16に書かれています。また、パウロの姉妹とその息子のことも使徒23:16に書かれています。私たちは自分の直近の家族だけでなく、友人をつくるよう働きかけましょう。自分が馴染みのない文化や宗教的伝統を持つ人たちにも積極的に関わるのです。

第二に、ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒、又はあなたの住む町や国の中で居住地を変えてみて下さい。そしてそこで彼らの宗教的な集まりやお祭りに参加してみましょう。彼らの礼拝所で初心者として参加してみて下さい。そして彼らの伝統のエッセンスを学ぶのです。そうすることで人々に会うだけでなく、彼らの信念を知ることもできます。このようにすることで彼らの考え方や何を大事にしているのか、等が分かるでしょう。無理強いすることなく、ごく自然な流れでイエス様のことを話せるように、良き洞察が与えられるように祈るのです。宗教的な原理などで彼らに不快な思いをさせるのは厳禁です。

キリスト教徒ではないコミュニティに引っ越すことができない場合は、彼らのコミュニティの中のカフェでお茶をしたり、彼らの地域のイベントに参加してみましょう。

自分が親しみを感じる場所は、次第にスポーツクラブや読書会に参加、あるいは地域のことにボランティアなどで貢献しているその場所になっていきます。どこに居ても、人を歓迎して下さい。近所の人を招いて下さい。食べるものの制限には気を付けましょう。それが招待する時の注意事項になります。どんなことをするのが現実的な援助になるのか、探してみましょう。

そのコミュニティの「第一の誕生」に敬意を払いましょう。自ら彼らの文化などを学ぶ姿勢を持ちましょう。いろいろと質問してみて下さい。家族の全員に関わりましょう。そしてゆっくりそのコミュニティの一員になっていきましょう。良いお知らせがありますよ、というフランクな姿勢で「良い知らせ」のことを話し始めて下さい。

先ずは自分の在り方で示してください。それから時が来たら説明すれば良いのです。焦ることはありません。あなたは罪びとだ、とか死や地獄の話から始めることはやめましょう。むしろ、個人的に、どんなふうに神様の祝福を経験したとか、私たちの暮らしの中で神様がどれほど素晴らしいか、そのような話をしましょう。ゆっくり話していけばいいのです。真実を否定するのではなく、福音の「良い知らせ」を私たちの強調ポイントの中心にしたいと思うのです。

彼らの宗教を批判せず、共通の理解を得られるところを探して下さい。
章と節に区切られていない聖書を用意しましょう。金の縁取りがある大きい黒い表紙の聖書は使うのをやめましょう。
福音書を一緒に読むことを楽しんで下さい。

私はよくこのような質問をします。「イエスがどんな人なのか、知りたくないですか?」と。すると、「それはどういう意味か?」と聞かれますので、そうなったら、ヨハネの福音書の簡易版を出して一緒に読みましょう、と誘います。相手に1ページ読んでもらいます。それから私が次のページを読み、質問します。「読んだところをどう思いますか?」と。

そのようにして論争や、教え込んだり、「それは違いますよ」等と言うことをしないで、どんなことを思ったか、意見を交換します。お茶をしながら、毎週このような読書会のようなことをして、新しい発見を楽しむのです。何カ月か、これを続けているうち新約聖書全体を読むことになります。もしできれば、その家族全員とこれをすると良いと思います。

リラックスして人との関係を楽しみましょう。自分が文化的な特徴に違和感があっても余計なコメント言うのは控えましょう。繰り返しますが、7つの戦略的キーポイントを思い出してください。その上で福音が届いていないその新しい場所で、あなたがどのように関われるのか、そこをよく考えて下さい。

第三に、最も福音が届いていない人たちがたくさん暮らす国、例えば、インド、インドネシア、タイ、中央アジア、中近東、北アフリカなどの海外で暮らすことを検討してください。そこで仕事を探すのです。特定の福音が届いていない人たちのグループに関わって下さい。リタイアする場所も殆ど証人がいない場所を選ぶのも一案です。常に考えるべきは、どのようにして自然な暮らしの中で家族全員にあなた自身が祝福となるか、という事です。あなたの影響で家族がばらばらになったり、誰か特定の人が力をもって、残りの家族が犠牲になるようなことには関わらないで下さい。

仕事を持てば、献金をお願いする必要もなくなるし、プロフェッショナルとして働くうちに自然と人のネットワークができます。じっと座って人と関わりのない仕事より人と関わる仕事が良いと思います。普通はよそ者が受け入れられるには相当の時間がかかるので、仕事を持つことは大きな利点があります。あなたが自然な足場を持つと、そこにいる人たちが怪しいと思ってくることはなくなります。仕事のパフォーマンスを見て判断するからです。

社会の水準に会うプロフェッショナルが必要なのです。ビジネスマン、コンサル、エンジニア、地質学者はしかるべき場所で不可欠になります。ライター、コメンテーターも必要です。医療人、農業、植物栽培の専門家も必要。法律関係者は国務に欠かせません。教育関係者も必要ですから、需要がある科目を選ぶのも良いです。学校を作ったり、指導者の育成にあたる教育ネットワークを始めることも良いです。しかし、もし現地の人が、あなたを改宗させるために送り込まれた宣教師だと思われたら、避けられてしまうでしょう。

NPOで働くこともできます。物質的な援助の必要があるところではその必要に答える人材であることはとても感謝されます。医療、井戸が必要な地域、作物の栽培、住居や学校建設の必要があるところでは人材が必要です。ホンジュラスで現地の農家と仕事をしている友人は給水設備の件で働き、その結果、農家の人たちが福音に心を開くようになりました。香川豊彦はこの原則を1936年からよく理解していて、その著書「友愛の政治経済学」で経済の原則は神の国の文脈を理解することで分かると説いた古典です。

ここに記載したことはともに祈ってくれる友人と一緒に神の導きを求めて下さい。ガイド役になってくれるコーチを持つことで、あなたと同じ思いの人を繋げてくれ、それは大きな助けになります。APEST(apostle:使徒、prophet:預言者、evangelist:伝道者shepherd:牧会者、teacher:教師)の思考を持つチームと関わって下さい。また、小さな会、チームそして稼働するグループを作るのも良いと思います。既存の宣教団体には責任をもって柔軟性のある対応をしてもらうことは通常難しいからです。

1792年、ウィリアム・キャレーは有志のバプテスト宣教団を14名の人たちと造ったのがこれに該当します。インドに行ったり残ったり、私的な貿易会社と同じような形でした。1792年までの40年は宣教団体というものはなかったのですが、その後40年でキャレーに刺激を受けた11団体が西洋に起こされました。

早速、神様があなたに何をしてほしいと思っておられるかを知るために祈って下さい。神様はこの世界に対してご自分の目的を持っておられ、あなたが関わってくれることを望んでいます。神様に「お使いください」というとすぐに、神様はその言葉通りにあなたを必要な場所に連れていかれます。安心して下さい。

マタイ9:36-38:「群衆を見渡すと、イエスの心は痛みました。羊の会のいない羊のように、彼らは目標もなく大変混乱していました。『なんという収穫だ』とイエスは弟子たちに言いました。『なんと働き手が少ないことか。ひざまずいて、収穫の為の働き手が与えられるように祈りなさい』」とあります。マタイ10:1には「祈りがなされるとすぐ、その祈りが答えられました。イエスは十二弟子を呼び収穫期の収穫地に彼らを派遣しました」とも書かれています。

あなたが祈ると、主はあなたが今いるその場所にお遣わしになります。やがて世界のまだ福音が届いていない場所にあなたをお送りになることでしょう。

2018年6月6日 ジョン・リッジウェイ

ジョンさんは兎に角、素早く行動を起こす人でした。私には算数が大好きな孫がいるのですが、その子にいつか数学や物理を教えて欲しい、神様がどのようにそれをお作りになったか、そういったことに関連して教えてあげて欲しい、とお願いしました。そこから次世代へのコーチングに繋がり、最終的には「子供の学校」を作ろう、子供が幸せになれる良い家庭を作るには?をコーチする学校を作ろう、という話になりました。ジョンさんにとっては、彼の命を使って伝えてきた神様を次世代に伝える使命を持った学校の構想でした。協力体制ということで、John&Tomoko Premier Academyと付けました。社会の基盤は良い家庭、それを作るのは良い夫婦、という事を主旨にして聖書を伝えていく学校を作ろうと話していました。ところが、そのこころざしも半ばで大事なメンターだったジョンさんは事故で神様の下に召されました。その後、その仕事はどうしたら良いのか、と思い祈りました。夫の死と恩師ジョンさんの死、立て続けに起こったtwo major lossesをどのように受けとめたら良いのか。ヤコブのように神様と格闘した結果、ゆっくり時間をかけてJoy&Transformation Premier Academyと移行することを神様が示して下さいました。「教会組織」や実行が難しい「教義」に行き詰まって、信仰を離れようと思っていた私に「神の国」の新しい視点を教え、信仰に留まることを助けてくれたのがジョンさんでした。彼に会えなかったら、信仰を捨てていたかもしれません。ですから鮮やかな、生き生きとした自由な信仰を教えてくれたジョンさんに心から感謝しています。「奴隷」にならず、自由に生きて良いのだと教えて下さってありがとうございました。私の師で居て下さって本当に感謝しています。天国でまた会いましょう!

HEALTH & MEDICINE

Good genes are nice, but joy is better.
ハーバード成人発達研究は、ハーバード大学が約80年にわたって行っている長期研究プロジェクトである。様々な背景を持つ男性グループの人生を追跡し、全体的な幸福と成功した老いに寄与する要因を解明するものである。この研究では、心身の健康、人生の満足度、幸福感に影響を及ぼすさまざまな要因について調査しているが、人間の幸福だけに焦点を当てているわけではない。その代わりに、社会的つながり、健康とライフスタイル、感情的幸福、心理的要因、社会経済的要因、幼少期の経験の長期的影響などの側面を調査している。この研究は貴重な洞察をもたらしたが、幸福は複雑で多面的な概念であり、単一の研究プロジェクトで完全に捉えることはできない。

この80年に及ぶ研究が示すのは、人生の満足度や幸福感を左右するのは「良好な人間関係」だというのはジョンさんが絶えず伝えてくれたことそのものです。そして彼の人生そのものが、人種、宗教を超えて愛に溢れた人間関係を築くことにフォーカスされていました。そしてその愛に溢れた人間関係こそ、真の「教会」のあり方だと強く主張しておられました。イエスを救い主として受け入れ、聖霊に導かれて自分が暮らしている文脈のままで生きていくこと。建築物ではない、ダイナミックな人間関係こそが「教会」の姿だ、と。ジョンさんはこの80年に及ぶハーバード大学の研究をご存じだったかどうか分かりません。しかし、彼の主張が「人が幸せに暮らす鍵は、その人と神様の関係、周囲の人との人間関係にある」と言っていたこととこの研究結果は素晴らしい合致を見せています。それこそ普遍的な真理なのです。

更に、ジョンさんからの贈り物は、「何にも縛られず自由に生きて良い」という考え方です。規律、教義を死守することが信仰者の姿だと信じていた私の信仰生活は仮面をかぶった喜びがないものでした。しかもそれに気付くことすらできなかった。イエス・キリストを信じたら「真理はあなたを自由にする」と書かれているのに、なぜかとても息苦しかった。

そこで、彼の話してくれた私への「遺言」のように受け取っている聖句はこれです。

ガラテヤの信徒への手紙5章1節、使徒パウロがガラテヤの信徒に宛てた手紙の一節です。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません」(新共同訳聖書)

ガラテヤの信徒たちは、ローマ帝国時代のガラテヤ地方(現在のトルコ)に住んでいた人々で、パウロは宣教の旅でこれらの地域を訪れ、福音を宣べ伝え、キリスト者の共同体を築いたのです。この背景を元にしてパウロは、イエス・キリストによる自由の概念を強調しています。ガラテヤの信徒たちに、パウロが胸に刻んで欲しかったことは、「イエスは罪と律法の重荷から解放するために来られたこと、イエスを信じる信仰によって新しい生き方を与えてくださったこと」です。「奴隷のくびき」とは、ガラテヤのクリスチャンに押し付けようとする宗教的な律法主義や戒律、儀式のことを指しています。イエス・キリストは私たちに自由を得させるためこの世に来られました。私たちを罪の縛りから解放、自由にするために十字架にかかり死んでくださいました。だから「宗教」の奴隷になることでイエスの十字架の意味がなくなるのは、独り子をお与えになった父なる神様の意に反することなのです。イエスの与える自由を「宗教」が奪ってはいけないのです。

ガラテヤ5:1が伝えたいことは、

  1. キリストへの信仰がもたらす自由を受け入れること
  2. 真の自由とはイエスとの関係の中に見出されること
  3. 律法主義的な考え方に戻らないこと
  4. 宗教的な規則や儀式を守ることではない。

パウロは、信仰によってのみ義とされるのであって、規則や規定を守ることによって義とされるのではないことを強調し、救いのためにユダヤ教の掟に従うことを主張する誤った教えに立ち向かい、キリストを信じる信仰だけで十分であると断言しているのです。 ジョンさんはこの部分を死守し、自由に生きることを何度も私に伝えて下さいました。

そしてパウロが言ったように、聖霊がその人の人生の中で生きた存在として働き「御霊の実」である徳のある資質を生み出すことを信者に勧めていました。また、何度も「私自身が教会である。なぜなら、聖霊がこの身に住んでくださっている聖霊の宮(教会)だからね」とブレずに伝えて下さいました。優しい笑顔で伝えてくれたメッセージは、ジョンさんが不動の信仰を持っておられたことを、姿が見えなくなった今でも私に見せて下さっています。ジョンさんに会えて本当に良かった。信仰は足かせではなく、自由の翼をくれるものだ、と理解できたのはあの方が語って下さったからです。 「宗教」に縛られない自由な生き方をしたい方、自由な行動を愛する方に、イエスの愛を箱の中に封じ込めたくないと思う方へ、このジョンさんの伝えてくれた自由な信仰をお伝えするのが私の仕事だと思っています。私はこのウェブサイトをジョンさんの遺志を引き継いで、大事に育て、形は見えないけれど存在するインターネットを介した「見えない教会」にしていきたいと願っています。

Your kingdom come 愛弟子の超意訳 PDF ▶︎▶︎

YouTube

Dr.John Ridgwayが話していることをまとめたものが以下になります。

  1. 固体物理学者のジョン・リッジウェイ博士は、自身の経験を YouTube で共有しています。
  2. 彼はインドで教え、さまざまな国の多国籍企業で働いてきました。
  3. 彼はさまざまな宗教的背景を持つ人々との友情を強調しています。
  4. 彼は、神はすべての国を愛し、発祥の地と時代を調整しているという聖書のメッセージを発見しました。
  5. 彼は、背景や地位に関係なく、人生に変化、喜び、目的をもたらすイエス・キリストを通しての霊的な「第二の誕生」について論じています。

(翻訳)
インドのバンガロールからご挨拶、自己紹介させてください。私の名前はジョン・リッジウェイ博士です。私は固体物理学者で、ここインドのバンガロール科学研究所で6年間教えていました。その後、インドとインドの両方の多くの異なる多国籍企業で働きました。オーストラリアとアメリカ、そして約20年間、私はヒンドゥー教のバックグラウンドを持つ多くの友人、仏教、イスラム教、キリスト教のバックグラウンドを持った友人に会いました。その後、私はシンガポールで働き、その後もちろんマレーシアで7年間働き、そして今現在に至っています。

アメリカでは、多くの国で働き、多くの場所を旅行する過程で、ヒンズー教の背景を持つ多くの良い友達ができました。イスラム教の背景を持つ仏教の背景、神道の背景、キリスト教の背景、さまざまな宗教的背景を持つ多くの異なる人々ができました。そして、私はとても素晴らしいものを発見しました。美しい聖書には、神はあらゆる国のすべての人を愛していると書かれています。実際、神は私たちの最初の誕生が神からのものになるように手配されているので、聖書は時代と場所は神からのものであると教えています。

その理由は、私たちが神を知るためです。私たちが歴史の中で生まれる時、歴史の中で私たちが生まれる場所は神ご自身からのものです。だから私がインド生まれのヒンズー教の背景を持つなら、これはこうです。神から私がイスラム教徒の背景であれば、私が仏教の背景であれば、これは神ご自身からのものであり、私たちは自分たちの出生、宗教、文化、社会、言語、国籍を誇りに思うことができます、これはすべて神ご自身からのものですこれは神が持っている素晴らしいものです。

私たちはこの地球で生きられるようになったのに、どういうわけか私たちは混乱の中にいて、私たちの人生はめちゃくちゃになっているように見える、私たちの人間関係は問題に直面している、何度も平和も喜びもないように見える、私たちの人生は終わってしまったようだ、そして素晴らしいのは、神がどういうわけか人類の歴史に参入し、第二の誕生をもたらしたことです。この誕生は上からのものです。それは霊的な誕生です。宗教やすべての組織や制度に関連した誕生ではありません。それは神からの誕生です。

さて、これはどのように機能するのでしょうか。私たちは、聖書の中で神が人類の歴史に参入し、その息子である主イエス・キリストがこの地球に生き、素晴らしい人生を送られた、完璧な人生、私たち全員が望むような人生を送られたと言われています。生きていますが、実際には彼は死んで死からよみがえりました、そして私たちは彼が犠牲としてこれをしたと言われています。そしてこの犠牲は私たちの人生のすべての問題、すべての悩み、すべての心配、さらには私たちの心の中の反逆さえ神を償ったのです。彼はそれらすべてに対処し、その結果を取り除きました。

(02:57)
彼の死によって、私たちの主イエス・キリストを通して、そして今日、私たちは生ける神が私たちの人生に来て私たちを変え始めていることを実際に体験することができます。この第二の誕生は上からのものであり、生ける神が私たちの中に住んでいると、彼は私の人生だけでなく変え始めます。内側から外側へと、しかし彼は私の人間関係を変え始め、私の家族、私の社会、私のコミュニティ、そして彼は多くの素晴らしい方法で変化をもたらし始め、今では喜びと平和があり、人生に目的があり、方向性があります。

彼は私たちがお金の扱い方、貧困、腐敗、不正の状況にどのように対処するかを理解するのを助け始めます。私たちの中に住んでいる主イエス・キリストのおかげで多くのことが変わり始めます。そしてあなたと私はこの地球に生まれる特権を持っています。最初の誕生ですが、私たちは二度目の誕生を経験する特権を持っています。上からの誕生で、生ける神が来て私たちの中に住み、私たちの生き方全体が変わり始めます。私たちの態度、私たちの行動、私たちの生活、私たちの人間関係、すべてが変わり始めます。

(04:05)
私の背景、カースト、コミュニティ、宗教、文化、富裕層、貧困層、中産階級などの私の人生の地位に関係なく、これらはすべて神によって与えられたものですが、神は私たちが今この新しい誕生を経験することを望んでいます。それは神ご自身が私たちの中に住んでいて、私たちを変え始めている上から来て、私たちがこの変化した人生を経験するとき、エキサイティングなことは、これがこの地球上だけでなく永遠に続き、私たち全員が永遠に一緒にこれを経験することになるということです。充実した人生と、それを知ることができて本当にうれしいです。今日、あなたの人生においてイエス・キリストの旅を始めることをお勧めします。

スピリット5

John, The Kingdom of God - YouTube視聴はこちら▶︎

物理学の教授であり多国籍企業のコンサルタントを長年務めたJohnですが、生涯をかけて伝えてきたことは実に単純なこと。その意味ではストレートで分かりやすい人でした。単純すぎて難しく考える人達には分かってもらえない、と嘆いていました。
この短い動画には彼が生涯をかけて伝えきたメッセージが凝縮されています。一切のブレがない生涯、首尾一貫して愛情に溢れたメンターが教えてくれたことは、科学では説明できない偉大な方が存在すること、その偉大な方との関係、人間同士の関係、それを慈しみ大切にして人生を楽しみなさい、と。ただそれだけでした。実に分かりやすいですね。

(翻訳)
神を愛し、隣人を愛することが御国の本質です。

ここにいるすべての人が人生の旅をしていることを見てワクワクしています。ここにいる人は皆、多様な人々、受けてきた様々な影響を(いろいろな形で)表しています。ここにいる皆さんは各自違う才能を持っています。(けれども)「使徒的な者の見方」をすることにおいては、イエスを愛し、他の人にイエスについて伝えたいと思う人は(その違いに関係なく)誰でも皆が「使徒」であるということです。

私たちは、キリスト教世界の視点を通してではなく、御国の視点を通してエペソ書を読んでいます。それは従来の視点とはとても違った視点です。キリスト教世界の立ち位置で人々がしていることは素晴らしいと思います。けれど私たち使徒的に考える者たちはキリスト教とは縁もゆかりもない人々、つまり教会には近づかない人々、キリスト教徒の友人などいない人々、多くの場合、キリスト教に敵対すらする人々のことも考えています。

私たちは彼らについて祈り、考え、「良い知らせ・福音」で触れたいと思っています。つまり、私たちはキリスト教の視点を通して考えているのではなく、御国の視点を通して考えます。ほとんどの人にとってそれは全く新しい考え方です。ですから、御国の考え方を理解することはとても重要なのです。なぜなら、私たちが福音を国々に伝えるとき、私たちはキリスト教ではなくキリストご自身を伝えるからです。私たちはさまざまな形式を紹介するのではありません。個人的な神との良い関係、人と人との良い関係をどのように築くかを紹介するのです。この視点に立つと(宗教などは無関係だから)互いを励まし合えるし、祝福し合えるし、関係性も楽しめるのです。

神様、私たちは主が私たちにたくさんの楽しみを持たせてくださるように祈ります。
親愛なる父よ、あなたの聖霊が私たちの心と心にあなたの御国と神の御国の良い知らせについて私たちが理解すべきことを照らして示してくださるようにお願いします。

ここにいるすべての人が、イエスのことを知らないさまざまな宗教的背景の人々に届くように、労苦していることを私たちは知っています。主よ、私たちがあなたの目的を理解するのを助けてください。そして、主よ、私たちが何をしたらいいのか、どのようになることをお望みであるか、あなたがそれを私たちに知らせてください。

  1. 中心メッセージは、神を愛し、隣人を愛すること!これが神の御国の本質です。
  2. 使徒的なアプローチが強調ポイントです。「使徒の定義」は、イエスを慕い、その教えを他の人々に伝え知ってもらおうとする人を指します。
  3. 示された重要な視点は、伝統的なキリスト教の観点ではなく、神の御国の視点を通してエペソ書の教えを見る、そこにあります。これには、従来のキリスト教のコミュニティに全く関わりのない人達、例えばキリスト教に敵対的な人々にも関わることです。
  4. キリスト教の形式を伝えるのではなく、人としてのキリストと関わりを楽しみます。神との、そしてお互いとの良い関係が大事なのだ、と人々に「神の良い知らせ」を伝えることです。
  5. この動画は最後に聖霊による導きを求める祈りで終わります。神の御国とその目的は何なのか、それを理解することに重点を置いています。特にイエスについて知らないさまざまな背景を持つ人々に神の愛を伝えることを励ましています。
スピリット2